現場第一主義を実践し アテネで男子団体金メダル
バイトで旅費をひねりだしたが、航空券を買う余裕はなかった。船でソ連のナホトカに向かい、鉄道でモスクワを経由してブルガリアのソフィアにたどり着いた。人生初の海外旅行だった。
ソフィアでは留学生の寮に住み、多くの国の学生らと友情を育んだ。
「自分が人種や宗教、言語の違いに関係なく、どこの国の人ともすぐに打ち解けられるのは、このときの体験が大きい」
現地では語学習得に役立つと思い、体操のジュニア世代の指導をした。好成績を収めさせると、新体操の練習も見に来るようブルガリア代表のヘッドコーチから誘われた。新体操の技術に加え、本を読ませ、芸術から哲学までの教養を深めさせていた。そうすることで選手は内面からわき出る感情表現で見る人の心をとらえられる。その指導方針に魅せられた。
日本に帰国して卒業が近づいても、新体操が頭から離れない。
「日本でも、感性豊かな子どもたちを育てられないか」
就職活動では新体操教室を展開する企画書を作り、小売業界に売り込んだ。複数の企業からは好感触で「大きな体育館を建てて、海外から優秀なコーチを招こう。年間5億円、10億円ぐらいなら広告費として安い」と言ってもらえた。
ジャスコ(現イオン)は違った。
「入社して一社員となり、事業として取り組みなさい。広告・宣伝費は景気に左右されるけれど、ゼロから自分で築いた事業は誰もが賛同する」
これが決め手で入社を決めた。
84年、新入社員としてスポーツ事業部に配属された。新体操教室を千葉市に開いたが、最初の入会者はわずか3人。上司に怒られたが、勧誘チラシを近隣のマンションに毎朝投函(とうかん)しつづけたら、1年後には会員が100人を超えた。今では全国30カ所以上、約7千人の生徒がイオンの店にある教室に通うまでに成長した。
新体操を日本で発展させた実績が認められ、渡辺は97年に日本体操協会の理事に就いた。
「体操ニッポン」の栄光は色あせていた。96年アトランタ、2000年シドニーの五輪2大会連続で日本のメダルはゼロ。協会の会長だった徳田虎雄が激怒し、「俺も辞めるから役員は全員、辞表を出せ」と全理事を辞めさせた。徳田から電話で呼び出され、言われた。
「君が新しい会長と役員を探して協会を立て直してくれ。4年後のアテネ五輪では、メダルを1個取ってほしい」
ジャスコ副会長を退任して間もない二木英徳を会長に迎え、組織の改革に取りかかった。今年8月に亡くなった二木にたたきこまれたのは現場第一主義だ。つねに問われたのは「選手はどう思うのかな」。メダルが狙える男子団体に強化を集中させ、海外遠征では選手をビジネスクラス、役員をエコノミーとした。アテネ五輪では男子団体で28年ぶりの金メダルに結実した。
今も現場第一主義の教えは大切にする。長年、渡辺を支える日本体操協会事務局長の守永直人(44)は昨年、北九州市で開いた世界選手権のときに、渡辺に叱責されたという。「海外から来る選手団が泊まるホテルが20近くあったんですけど、事前に視察しなかったんです。手間を惜しむな、と厳しく言われました」