10月に東京で開かれたパルクールの世界選手権の開会式であいさつした。アーバンスポーツらしく、渡辺もスーツではなく、カジュアルな服装で、選手らと記念すべき第1回大会の開幕を祝った(撮影/今祥雄)

FIGのため単身スイスへ 会長室には家紋入りの鎧

 渡辺は五輪メダリストではない。五輪に出場した経験もない。口癖がある。「おれはサラリーマン」。40年近く、小売り大手のイオングループで、スポーツ事業部を中心に社業に邁進(まいしん)してきた。今もイオン新体操クラブ代表の肩書を持つ現役サラリーマンだ。

 18年には国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれた。オリンピアンや王族が大勢いて、欧州の貴族サロンの趣が残る世界では異色のサラリーマン委員だが、存在感は傑出している。

 今では携帯で連絡を取り合う仲である会長トーマス・バッハ(68)から委員に推薦することを打診されたとき、注文をつけた。

「仕事を与えてもらえるならお引き受けしますが、名誉は欲しくありません」。お飾りの肩書に魅力を感じない。バッハから「心配するな。仕事はあるから」と笑いながら言われ、「わかりました。光栄です」と応じた。

 就任してからは、審判の不正など問題山積だったボクシング界を立て直すため、東京五輪でのボクシング競技の統括を任されるなど、体操に加えてIOCの仕事でも奔走する日々に。

「私もかなり世界を飛び回っているけれど、ワタナベはすごすぎる」。重責を背負わせておきながら、バッハにあきれられている。

 秘書付きの厚遇で世界を行脚するIOC会長やほかのIOC委員と違い、一人で旅に出る。

 FIG会長室には渡辺家の家紋入りの鎧(よろい)を持ち込んだ。「どこかに心のよりどころが欲しいんだよね。単身でローザンヌに乗り込んできたから」

 側近といえるFIG事務総長、ニコラス・ボンパネ(51)に渡辺について聞いた。

「端的に言い表すなら、約束を守る人、そして革新的だ。誰だって口では理想や夢を語れる。それをどう実行するか。新機軸を打ち出し、責任を背負ってやれる人は多くない」

 福岡県北九州市で生まれた。実家はこうじの製造販売を営んでいた。母には「栄枯盛衰は世の常だから家業をあてにせず、勉強して人の役に立つことをしなさい」と諭された。アフリカでの医療に貢献した野口英世、アルベルト・シュバイツァーにあこがれ、医学の道に進もうと考えた。

報道陣に質問されたら婉曲的にごまかしたり、逃げたりしない。本音で答えるのが信条。古株のIOC委員からは「ワタナベの発言はストレートすぎる」と忠告されたこともある

 高校時代に体操と出会い、FIG会長まで上り詰める軌跡は、聞けば聞くほど、運命のいたずらの連続に思える。

 福岡県立戸畑高校の体操部は、かつて高校総体で全国3位になった実績があり、専用の体育館もあったが、入学当時の部員はゼロ。「悪ガキ」の級友4人とその体育館を遊び場にしていた。それを体操部顧問に見つかる。「体操をやりたかったんです」と苦しまぎれの弁明をしたら、全員で入部させられた。顧問の中村輝美は戦争で中止になった40年東京五輪の「幻の日本代表」。体操なんて興味もなかったが、3年の春の県大会で団体3位になるまで上達した。

 九州大医学部を目指して勉強もしていると、東海大体育学部の推薦入試を高校から勧められた。

 ハンバーガーチェーンのマクドナルドが東京に上陸して話題になっていた。友人と盛り上がり、勢いで上京して受験した。翌日、合格の知らせが届く。もう断れない。進学先が決まった。

 大学に入って間もなく、母にがんが見つかる。学費を払うのが苦しくなり、退学するしかないかと考え始めたとき、ある案内が大学の掲示板で目に入った。交換留学生の募集で、現地での学費は不要で奨学金まで出る厚遇だった。ブルガリアの国立体育大に応募し、合格した。

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