ところが、ドラフト当日、巨人は「将来性のある投手を」という王貞治監督の意向で、橋本を単独1位指名してきた。

「うれしかったけど、僕は建前上、プロ拒否でしたから、カメラマンに(中日1位指名の)立浪(和義)と並んで『ガッツポーズしてください』と注文をつけられたときは、複雑な気持ちでした。プロ拒否がコロッと変わるわけにはいかないので、入団決定も一番遅い12月25日でした」。

 入団後、憧れの江川の30番を受け継いだ橋本だったが、故障が多く、4年間2軍暮らし。「巨人じゃないほうが良かった」と悩んだ時期もあったが、長嶋茂雄監督が13年ぶりに復帰した93年に“勝利の方程式”として中継ぎで52試合に登板。「長嶋さんが監督にならなければ、あのまま消えていたかもしれない」。翌94年も登板52試合、2勝3セーブを記録して長嶋巨人初の日本一に貢献した。

 だが、その後も故障続きで、巨人在籍13年間で活躍できたのは、この2シーズンだけ。「早くクビになってもおかしくないのに、やっぱりドラ1ということで大事にしてもらえたのだと思います」としみじみ回顧している。(文・久保田龍雄)

著者プロフィールを見る
久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

久保田龍雄の記事一覧はこちら