昨年までのドラフト1位指名選手の出身高校別ランキングでは、計20人のPL学園が、12人の大阪桐蔭、横浜を抑えてトップ。20人の中には、桑田真澄、清原和博、立浪和義、福留孝介、前田健太ら球史に残る名プレイヤーも数多いが、その一方で、プロではあまり活躍できずに終わったドラ1組も存在する。
【写真】登板中にマウンドで熱中症になり「死ぬんかなと思った」選手はこちら
センバツ優勝投手になり、プロでも飛躍を期待されながら、1軍登板わずか7試合の0勝で終わったのが、1982年の阪急1位・榎田健一郎だ。
当初は大学、社会人志望だった榎田は、最後の夏に大阪府の地方大会で敗退したことに悔いを残し、「負けたままで終わりたくない」と一転プロ入り。ヤクルトに入団した同期の荒木大輔に「絶対負けられへん!」と闘志を燃やした。
翌83年の自主トレ、キャンプでは、高校生離れした強靭な下半身から生きの良い球をビシビシ投げ込み、オープン戦でも好投。8回から先発・山沖之彦をリリーフした3月20日の巨人戦では、9回に安打と2四球で1死満塁のピンチを招くも、岡崎郁を遊ゴロ、松本匡史を二ゴロといずれも直球勝負のたった2球で打ち取り、無失点で切り抜けた。
「巨人だからといって、意識はしません。投げ甲斐はありましたけど、それより原(辰徳)さんに1度投げてみたかった」(週刊ベースボール4月11日号)とコメントも大胆不敵だった。
だが、初先発した3月25日の中日戦で、モッカと田尾安志に被弾するなど、3回4失点と炎上。以来、フォームを崩し、開幕1軍を逃した。
その後、シーズン終盤に勉強がてら1軍初昇格も、初登板となった9月2日の西武戦で、スティーブに満塁弾を浴びるなど、3回6失点と打ち込まれた。さらに腰椎分離症も追い打ちをかけ、不本意なまま1年目を終えた。
2年目以降も、肩、肘、両足首と故障が相次ぎ、86年は2軍での登板機会もないまま、シーズン途中に自由契約になり、現役引退。センバツ優勝からわずか4年後の悲運の幕切れだった。