即戦力と期待されながら、プロ通算2勝で終わったのが、98年の近鉄1位・宇高伸次だ。
94年、PLでは珍しい下手投げの本格派エースとしてセンバツ4強入り。近大でも通算20勝を挙げ、史上初のアマ5冠にも貢献した実績を引っさげ、地元球団の近鉄に逆指名の1位で入団した。
99年4月25日の日本ハム戦でプロ初先発初登板。初回にPLの先輩・片岡篤史に右越え先制タイムリー三塁打を浴び、4回にもエラーをきっかけに2点目を失ったが、1対2の5回に味方打線が大量5点の援護射撃。6回1死、3点目を失ったところで降板も、リリーフ陣が1点差で逃げ切り、うれしいプロ初勝利を手にした。
サイドに近い独特のフォームから最速142キロの直球を主体に終始攻めの投球に徹した強心臓ルーキーは、プロ初のお立ち台で「打線の人に感謝したい」と会心の笑顔を見せた。
だが、5月2日のロッテ戦では5回途中6失点KO。その後、9月8日のロッテ戦で2勝目を挙げたが、1年目は登板12試合の2勝2敗、防御率4.81と即戦力の期待に応えることができなかった。
翌00年から中継ぎ転向も1軍に定着できず、02、03年は1軍登板なし。03年オフに2対2の交換トレードで横浜に移籍したが、木塚敦志ら同タイプの横手投げが多いチーム事情から、1度も1軍で登板のチャンスがないまま、オフに戦力外通告。ドラ1指名からわずか6年でユニホームを脱いだ。
現役引退後、野球から離れていたが、22年にSUNホールディングスの奈良硬式野球部のコーチに就任した。
リリーフとして活躍したシーズンはあったものの、相次ぐケガに泣いたのが、87年の巨人1位・橋本清だ。
同年、背番号10ながら、剛球右腕としてPLの春夏連覇に貢献した橋本は、中学時代に江川卓に親しみを感じて巨人ファンになり、PLの2年先輩・桑田真澄が巨人入りすると、「僕も絶対巨人に」の気持ちが一層強まった。
だが、巨人の1位指名は長嶋一茂(立教大)が濃厚と報じられると、「プロには行かない」と宣言して、社会人の本田技研(現Honda)の内定を貰った。