1908(明治41)年に昭憲皇后が日赤社長に贈った和歌がある。赤十字を通じて外国にも慈しみが及ぶ喜びが詠み込まれている。 

 ひのもと(日本)のうちにあまりていつくしみとつくに(外国)までもおよぶみよ(御世)かな 

 日赤との関係に限らず、人道支援に対する活動は、代々の皇后に受け継がれてきた。

 1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きたとき、病気療養中だった大正天皇と妻の貞明皇后は日光の田母沢御用邸にいた。

 9月29日に東京に戻った貞明皇后は、上野駅に着くと、その足で上野公園内にいた被災者を見舞った。

 避難所となった博物館内で貞明皇后は脚気衝心(急性心不全)をわずらう男の子に出会う。薄暗く冷たい床に身を横たえ、姉に看護されながら病に耐える姿に心を痛め、歌を残した。           

 石つくり小(お)くらきいへのつめたさも姉のみとりにしはししのかん          

 翌日以降も、貞明皇后は慶応病院や伝染病研究所、日赤の病院などを訪ねて被災者を見舞った。いったんは田母沢御用邸に戻ったものの、10月15日には大正天皇と帰京して視察を続け、3万8千人が焼死した本所区(現・墨田区)の被服廠(ひふくしょう)では、長い黙祷を捧げた。

 昭和に入ると香淳皇后、そして皇太子妃となった美智子(上皇后)さまに、医療・人道支援の活動が受け継がれる。ご成婚の10日後には、美智子さまは日赤の名誉副総裁となった。

 1964年の東京パラリンピックで結成された、日赤のボランティア「通訳奉仕団」は、美智子さまがその結成を後押している。

 地道な奉仕作業も大切にしてきた。かつては月曜日、日赤本社に宮妃が集まり、乳児院で使う衣類や高齢者施設に寝間着を贈るためにミシンを踏む裁縫奉仕が盛んであった。

 故・高松宮妃喜久子さまや常陸宮妃華子さまも熱心に足を運んでいた。

愛子さまは、成年皇族として初めての記者会見に臨んだ
愛子さまは、成年皇族として初めての記者会見に臨んだ

 2011年の東日本大震災で皇室は、栃木県の那須御用邸のふろを近隣の避難者に開放。秋篠宮家紀子さまと当時内親王だった眞子さん佳子さまは被災者が使うタオルの袋詰め作業をした。同年夏に眞子さんは名前を伏せ、学生ボランティアとして岩手県と宮城県へ足を運んだ。子どもらの心のケアにあたり、「まこしー」と呼ばれていた。

 コロナ禍が始まった20年には、秋篠宮ご一家と職員が市販のビニル袋を加工した手作りのガウン500着を医療現場に贈った。医療現場で防護服が不足し、職員がごみ袋を加工してしのいでいるとの説明を受けたことから、この作業が始まったという。

 愛子さまも今年3月に行なわれた成年皇族の記者会見で、東日本大震災の復興支援に携わる友人を通じて「災害ボランティアにも関心を持っております」と話している。

 地道に医療・人道活動を支える精神は、若い皇族方にも受け継がれている。

(AERA dot.編集部・永井貴子)

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