AERA 2024年7月8日号より

 ただ、「フキハラ」という言葉には引っ掛かりを感じるという。

「メディアも含めて一種の流行のように、『次の○○ハラ』を探しているような感もあります。それによって顕在化していなかったハラスメントに光が当たる面もある一方で、流行というのは必ず終わる。このフキハラというイシュー(課題)が社会にちゃんと根づくかどうかは別の話です」

 次々と生まれる「○○ハラ」に「暴走」の懸念も佐々木さんは感じている。それは、差別や不謹慎さを含むすべての表現をなくしていこうという「ポリティカル・コレクトネス(PC/政治的正しさ)」の課題とも通底するものだ。

 このところ、不快な映画の上映を妨害したり、その表現者を個人攻撃して排除しようとするなど、PCの行き過ぎが指摘され、揺り戻しも起きている。

「虐げられた側が虐げている相手に反抗もできなかった時代が長かったので、それを言えるようになったのはいいこと。ハラスメントも同様です。でもそれが過剰に『○○警察』みたいな形で暴走してしまうと、目指す方向に逆にブレーキをかけてしまい、本当の被害者を覆い隠してしまうことにならないか。PCもハラスメントも、指摘する側にはある意味で『ゆるぎない正義』があり、『ちょっと行き過ぎじゃない?』が言いにくい。そこも気になります」

「ノンバーバル」に対して、かつて以上に敏感に

 背景には、何があるのか。社会学者で筑波大学教授の土井隆義さんは、「ため息を使わざるを得ない状況が生まれてきている」として、こう読み解く。

「いまは価値観が多様化してきて、なかなか自分の主義・主張を表明しづらい時代です。たとえば部下が自分より早く帰ろうとしたとき、『なぜ帰るんだ』とは言いづらい。帰る人にも一理あるだろうし、『仕事の方が大切じゃないか』と言うのは憚られてしまう」

 自分の思いをバーバル(会話や文字などの言語的なコミュニケーション)で表出することが難しくなり、ため息という形で表出せざるを得ないのだと土井さんは言う。

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