「今川義元桶狭間大合戰之圖」(東京都立図書館蔵)
「今川義元桶狭間大合戰之圖」(東京都立図書館蔵)
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 豪雨の中、大軍を率いる今川軍に対し、少数の軍で奇襲を仕掛けて勝利した――そんなイメージのある織田信長の「桶狭間の戦い」だが、実は「ふつうに正面突破していた」という説もあるという。X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わった彼の新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、信長らのやり取りの一部を抜粋・編集してお届けする。

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織田信長:待たせたの、信長じゃ! 1560年5月19日に、今川義元とワシ・織田信長が戦った合戦が「桶狭間の戦い」だな。尾張の桶狭間という場所で戦いが繰り広げられたことからこの名前がついておる。ワシのキャリアを代表する一戦といえるな。

今川義元:どうも、今川義元です。桶狭間の戦いで、私の陣営は2万5000以上の軍勢を率いておりました。一方で織田陣営はわずかに2000前後の軍勢。こんな戦力差にもかかわらず、織田信長の前に私はあっさり敗れてしまうわけです…。

 ちなみに軍勢だけでなく家柄でも私のほうが格上だったのですよね。駿河・遠江の守護である今川氏は名門。私は幼少期に出家しましたが、上の兄2人が早世したことで還俗(げんぞく)。五男の私も戦国時代の表舞台に登場したわけです。

 還俗したあとは、三男の兄との後継者争いを経て今川家の当主に。「公家かぶれ」なんてバカにされがちですが、実は「海道一の弓取り」と評されるほど実力のある武士なんですよねー、実は。

織田信長:一方のワシといえば、奔放すぎる毎日を送っておった。傾奇者ファッションに身を包み、自由気ままに暮らしておったのだな。周囲からは「うつけもの」やら「おおうつけ」なんて呼ばれておったし、教育係の平手政秀をよく困らせておったものだ。

 そんな中、ワシが18歳のときに「尾張の虎」と呼ばれた父・織田信秀が亡くなるわけだ。父が亡くなったことで、必然的にワシは織田家を継ぐことなるのだが、ワシはあいも変わらずうつけライフ三昧。父の葬儀では、仏前で焼香を投げつけて帰るなど、うつけぶりをマックスに発揮しておったのだな。

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