このように、「専門家としての能力」が高くても、「労働者としての能力」「同僚としての能力」が低いと、Aパターンの連絡をしてしまう場合が多いわけです。

 いったいなぜそうなってしまうのでしょうか。誤解を恐れずに言うと、「高学歴の人」というのは、「労働者や同僚としてのスキルを捨てて、専門性を身に付けた人」が一定数いると思います。

 例えば、「天才」や「秀才」という言葉を聞いたときにイメージするのは、学問に本気で向き合って、恋愛や生活環境、娯楽、遊び、といったものを犠牲にして勉強していた人だと思います。

 そのイメージは概ね間違ってはおらず、高学歴の人の中には、部活にも入らず、友達とも遊ばず、ひたすら勉強をしていた人もいますし、食事や風呂の時間ですらも勉強をしていた人もいます。

コミュニケーションの機会が少ない

 最近では、勉強だけをひたすらやっていたという高学歴の人は少なくなっている印象がありますが、とはいえ「自分は青春を捨てて、勉強に時間を捧げてきた」と語る高学歴の人はやはり多いものです。

 実際、小学3年生のときから中学受験のために週5で塾に通い、中高6年間も学校からの膨大な宿題を終わらせるために1日3時間・休日は9時間勉強。

 高校2年生の3学期からは「今からは高校3年生の0学期だ!受験生として、ひたすら勉強しろ!」と言われ、睡眠時間を削り、移動の時間やトイレや風呂・食事の時間、スマホでも勉強に励み、もしそれでうまくいかなかったらもう1年間ひたすら勉強する浪人生活を送る。このように、さまざまな青春や、社会経験をせずに、その結果として高学歴を得ている人もいるのです。

「専門家としての能力」を得るために、部活をしたり友達と遊んだりして得られるはずの、ちょっとした対人スキルやコミュニケーション能力を得る機会があまりなかった、つまり②の労働者としての能力と③の同僚としての能力を、対価として捨ててしまった人たちもいるように思います。

 ギャンブル漫画の『賭博破戒録カイジ』では、「人は金を得るために命を削っている」という有名なセリフがありますが、それと同じ理屈で、「高学歴は、学歴を得るために命を削っている」わけです。

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