しかしこの際、推理小説の古典として著名なヴァン・ダイン作『僧正殺人事件』を引き合いに出してその誤解に反論しておきたい。そこでは、当時最先端の物理学の知識が(全く意味もなく)てんこ盛りであり、それを読んだ私は驚かされたのだ。

 例えば、殺害されたある被害者の近くに、Bikst=λ/3(gikgst-gisgkt)といったメモが残っていた、とある。これは2次元時空のリーマンテンソルを計量テンソルで書き下した結果だと思うのだが、それを理解できる知識を持つ読者が果たしてどのくらいいるであろう。

 そのあたりを心配しながら読み終えた私にとってさらに衝撃的だったのは、このメモの内容がストーリーと全く関係ないことであった。何を意図して伏線でもなんでもない難解なメモを持ち込んだのか、この殺人事件以上の謎である。

 のみならず、登場人物の一人である物理学者は、量子論では説明できない光の相互作用を考慮したエーテル線理論の修正の仕事や、ド・ブロイやシュレーディンガーによって数年後解決されたアインシュタインの仮説の矛盾に取り組んでいたとも書かれている。

 量子論の基礎方程式をシュレーディンガーが発表したのは1925年であるが、本書の出版はわずか4年後の1929年。そんな最先端の物理学の話を、推理小説に潜り込ませるとは驚異的だ。当時の推理小説読者層の科学リテラシーがすごかったのか、ヴァン・ダインが物理学オタクだったのかはわからない。ただ少なくともそのような物理学ネタを主人公にとうとうと語らせようと、本の売り上げが落ちないだけの科学リテラシーが存在していたことは確かだろう。「実に興味深い……」。

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