「密度の高い内容であった」とも振り返り、具体的には、「数学は一時間目から級数展開で度肝を抜かれ、さらに関数論・確率論などへ発展する。物理は微分・積分の知識を前提とした些いささか難解な講義であった」と述べている。

 講師には、当時京都帝大教授で、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士がいたことも明かしている。「湯川教授が毛髪をポマードで極めて丁寧に整髪しておられたことが記憶に残っている」と当時の思い出を記していた。

 片岡さんの生まれ育ちは奈良県。地元中学では学年トップクラスの成績ではあったが、選抜された理由は誰からも説明されなかったという。関西の各府県から選ばれた約90人の生徒とともに、京都で下宿しながら、京都一中で特別科学教育を受けた。

 このころの日本はすでに戦争末期。米軍が沖縄に上陸しており、大阪にも空襲が続いていた。奈良の自宅では食卓におかずはのらず、白米の配給も減っていた。母に連れられ農家に野菜を分けてもらう貧しい生活を送っていた。

■ほとんどは京大、東大、阪大に進学

 戦後の48年3月、他校より1年遅れて京都での特別科学教育も終了した。片岡さんの論文によると、ほとんどの生徒が京都大学や東京大学、大阪大学などに進学したという。ただ、片岡さん自身は職場や家族にも、特別科学教育の経験を話すことは避けてきた。エリート教育を受けたことを言うことは「自慢だ」と批判的にとらえられかねないと感じていたためだ。「日本社会、特に学校は『超平等主義』になった。みなで同じレールに乗ることが大事という社会になってしまった」と今も感じている。

 そんななか、同じ教育を受けた特別科学教育のクラス仲間とは、同窓会を定期的に開いてきた。年齢とともに亡くなる仲間も増え、年賀状をやりとりする程度になったが「あの頃の思い出を語れる仲間は生涯の友」と大切な思い出となっている。

 柔和な片岡さんの表情が固まった瞬間があった。私が、特別科学教育の評価について「いい制度だったと思うか」と聞いた時だ。少し間をおき、片岡さんは言った。

「私たちがエリート意識のような考えになることはありませんでしたよ。あの時代に、特別な教育を受けさせてもらえたことは本当にありがたかった。ただ、だからこそ、受けたくても受けられない同級生が多くいたことをずっと考えてきた。もろ手を挙げてよかったと大きな声では言えないのは、今でもそうです」

 90 歳をすぎた今でも、慎重に言葉を選びながら話す姿が、印象的だった。

(年齢は2023年3月時点のものです)

●阿部朋美(あべ・ともみ)
1984年生まれ。埼玉県出身。2007年、朝日新聞社に入社。記者として長崎、静岡の両総局を経て、西部報道センター、東京社会部で事件や教育などを取材。連載では「子どもへの性暴力」や、不登校の子どもたちを取材した「学校に行けないコロナ休校の爪痕」などを担当。2022年からマーケティング戦略本部のディレクター。

●伊藤和行(いとう・かずゆき)
1982年生まれ。名古屋市出身。2006年、朝日新聞社に入社。福岡や東京で事件や教育、沖縄で基地や人権の問題を取材してきた。朝日新聞デジタルの連載「『男性を生きづらい』を考える」「基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年」なども担当した。

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