宗教や政治について同じ意見を持つことは、最初の繋がりを形成するためには役に立つかもしれないが、深い関係をそれだけで築くことができることはほとんどないだろう。宗教観や政治観が同じだというだけで成り立っている友情が持続可能であることは稀だろう。

 より深く本質的な繋がりが、後で何か見つかったというのなら話は別だが。実際、こうした見解の一致だけにもとづいた友情は、持続可能とは真逆の結果になることも多い。他者との繋がりが希薄な人は往々にして、ささいな意見の差異が現れてくると、より警戒や用心を深めるからだ。

人が間違っていても気にしない

 宗教的(例えばカトリック信者)ないし政治的(例えばリバタリアン)なアイデンティティといった、道徳についての表面的なラベルだけで繋がった人間関係においては、小さな相違ですらその関係がもつ唯一の基盤を脅かしうるのである。

 教会を中心とした多くのコミュニティが、どれだけ排他的になっているかを見れば、人間関係におけるこの単純な事実を理解できるはずだ。意見の相違、特に政治をめぐるそれのために、友情を投げ捨ててしまうなんてことをするのはどうしてなのか?

 もし不幸な事故が起きて、あなたが病気になったり死にかけたりしたとき、あなたの面倒をみて手を握ってくれる人が、自分とは違う政党を支持しているかどうかなど、本当に気にすべきことなのだろうか?

 意見が完璧に一致することはないという「問題」にどう対処すべきだろうか? 簡単である。人が間違っていても気にしないことだ。とりわけ、間違っているのが友人ならばなおさらだ。

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