“普通のOL”から日本を代表するランナーとなった谷川真理
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 今夏に控えるパリ五輪へ向けて、日本マラソン界は選考レースが続いている。現時点で男子代表が小山直城、赤﨑暁、大迫傑の3人、女子代表が鈴木優花、一山麻緒の2人が決定し、残りは「女子1枠」のみとなった。特にこれまで金2個(高橋尚子、野口みずき)、銀1個(有森裕子)、銅1個(有森裕子)の五輪メダルを獲得している女子マラソン界の中で、五輪不出場も大きな存在感と足跡を残したランナーを振り返りたい。

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 数々の名ランナーが誕生してきた日本女子マラソン界だが、異色の経歴を持つランナーとして人気を博したのが、谷川真理だろう。1962年生まれ。普通のOLだった24歳から“皇居ラン”で練習を始めて、市民ランナーとして注目を集めて1990年に資生堂に入社。そして1991年東京国際女子マラソン、1994年のパリマラソンでの優勝など、数々の大会で好結果を残した。だが、選考レースに出走したバルセロナ五輪、アトランタ五輪は、ともに出場切符は掴めなかった。それでも、第一線を退いて以降もランナーとして走り続け、タレント活動や社会貢献活動も通して「走る喜び」を広めている。

 谷川も候補となっていた1992年バルセロナ五輪の代表選考で“無念の落選”として記憶されているのが、松野明美だ。1968年生まれ。高校卒業後に入社したニコニコドーでの猛練習で力を伸ばし、身長147cmと小柄ながら軽快な走りで、実業団駅伝や都道府県駅伝などで“ごぼう抜き”を連発。「駅伝女王」としてスターランナーとなった。そして1988年のソウル五輪に10000mで出場した後にマラソンに転向すると、1991年の大阪国際女子マラソンで好タイム(2位)を出した。これによって一時は1992年のバルセロナ五輪代表入り確実と言われたが、最終的に有森裕子が3人目の代表選手に選ばれ、松野の涙の会見とともに“騒動”として当時は大きなニュースとなった。

 安部友恵の名前も懐かしい。1971年生まれ。高校卒業後に旭化成に入社。そして21歳で初出走した1993年の大阪国際女子マラソンで、浅利純子とデッドヒートを繰り広げながら最後の競技場に入る直前にテレビ中継車につられて進入路を間違えるミスで2位となり、直後のインタビューで「私ってマヌケだなぁ~と思いました」と明るく笑い飛ばして人気者になった。そして翌年の同大会でリベンジ優勝を果たすと、1993年の世界選手権で銅メダルを獲得した。だが、年齢的にベストのタイミングだったアトランタ五輪では、選考レースでスタート直後に転倒するアクシデントに見舞われて補欠止まり。100kmウルトラマラソンの世界記録を樹立したが、五輪の舞台に立つことはなかった。

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