輪島市内の1次避難所=2月4日(撮影/古川雅子)

感染した要配慮者の砦に

 じつは輪島市は、2007年の能登半島地震の際に「福祉避難所」を全国で初めて設置した自治体だ。福祉避難所では、高齢者や障害者、妊産婦や乳幼児など、避難所生活で特別な配慮を必要とする人を受け入れる。先述した母子避難所もその一つだ。

 輪島市では、事前に26の施設で福祉避難所の設置協定を結んでいた。だが、今回の地震では、介護スタッフも市の職員も多くが被災。そんな事情から、1月1日の発災当初から開設できた福祉避難所は2カ所だった。

 そのうちの一つが、同市釜屋谷町のグループホームなどが入る福祉施設に設置された「ウミュードゥソラ福祉避難所」。発災1週間後からはDMATの指示のもと、医療ニーズの高い人も送り込まれるようになった。アウトブレーク(集団感染)発生後は、新型コロナ、インフルエンザ、感染性胃腸炎という三つの感染症の罹患者が押し寄せ、感染した要配慮者の砦(とりで)にもなった。

 背景としては、県立輪島高校の一角に増設された感染者隔離のための臨時の福祉避難所もすぐに満杯になってしまったことがある。さらに、地域の基幹病院である市立輪島病院の職員が多数被災していたため、入院病床を減らさざるを得なかった事情もあった。

 特に高齢者や体が弱った人が感染症にかかると、一気に状態が悪化することもある。ウミュードゥソラ福祉避難所には看護師と在宅医が切れ目なく駆けつけていたこともあり、なんとか受け入れに応じた。

 発災当日からここで支援を続けてきた地元看護師の中村悦子さんは、感慨深げに振り返る。

「グループホームの個室の入所者をバタバタと遠くの施設に2次避難させ、そこを隔離部屋にしました。部屋が空いたら、すぐさま新たに人が搬送されてくるので、利用者は40人以上に。 本当に野戦病院のような状況でしたね」

 大広間には、認知症の症状が進んで歩き回る高齢者も複数いたが、そうしたお年寄りが隔離部屋に入ってこないよう、気を配る必要もあったと中村さんはいう。

元すし職人の避難者がいなりずしを

 ここでの主だったケアの担い手は、外部の民間団体がチームを組むボランティアたち。中村さんのSOSを受けて、全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」を母体に、急きょ4県7団体による民間の災害支援チームが結成された。入れ代わり立ち代わり介護や看護の外部スタッフが応援に来る。そんな目まぐるしさの中で、被災者との交流も生まれていた。

朝食後にくつろぐ宮腰昇一さん(撮影/古川雅子)

 印象的だったのは、宮腰昇一さん(75)だ。震災で半壊した輪島市内の自宅では暮らせなくなり、最初は1次避難所の駐車場で車中泊を続けていた。知人のツテを頼り、数日後にこの避難所にたどり着いた。

 もともとはすし職人。市内に店を出し、38年間腕を振るった。避難所での会話でそんな経歴を知った神奈川県の介護スタッフから「煮た油揚げの保存食が避難所内に在庫があったんですよ。ぜひ握ってほしい」と声をかけられた。そこで1月末に、60貫のいなりずしを握って、入所者やスタッフらに喜ばれたという。

 その直後に私が訪れた時、宮腰さんはいなりずしのエピソードを少し照れくさそうに話した。

「もう、一生大勢に握ることなんてないと思っとったけど、若いスタッフさんに誘われて。そのスタッフさんと、自宅まで自前の道具を取りに行ったんだよ。『飯切り』という寿司おけ。つぶれてぐしゃぐしゃになった家でほこりをかぶっとった。避難所に持ち帰ったそのおけで酢をまぶし、シャリを切って握らせてもらった。私も少しは皆さんの役に立ったんかなと喜んどる」

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