巨人時代の岡島秀樹(OP写真通信社)
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 プロ野球のトレードは、シーズンオフの11月、12月に行われることが多いが、時にはシーズン開幕直前になって成立するものもある。ファンの記憶に残る開幕前の“駆け込みトレード”を振り返ってみよう。

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 前年暮れにトレードを噂されながら、開幕直前の3月20日に発表されたのが、1995年のヤクルト・西村龍次、近鉄・吉井理人の交換トレードだ。

 西村は1年目の90年から4年連続二桁勝利を記録するなど、在籍5年で通算56勝。一方、吉井は88年から3年連続二桁セーブを記録し、93年から先発に転向していた。

 94年暮れ、ヤクルト・野村克也、近鉄・鈴木啓示両監督の会談で2人のトレード話が持ち上がった。西村は同年5月11日の巨人戦の死球が“危険球即退場”のルール導入のきっかけになるなど、制球に難があり、打撃も苦手。野村監督は「打撃やバントのないパ・リーグのほうが銭を稼げる」と口にしていた。吉井も鈴木監督との確執が噂され、そんな両者の思惑が一致したようだ。

 だが、年明け早々にも成立するとみられたトレードは、西村が拒否し、暗礁に乗り上げてしまう。翌95年2月のユマキャンプ中にも、新聞のトレード報道を気にした西村に、田口周球団代表が「移籍はない」と説明するひと幕もあり、トレードはご破算になったと思われた。

 ところが、3月11日になって、田口代表が西村を呼び出し、近鉄へのトレードを通告したことから、不信感を抱いた西村は「心の整理がつかない」として、数日間の猶予を求めた。

 その間、セ・リーグへの移籍を熱望していた吉井は「話がなくなるんじゃないかとドキドキしていた」そうだが、同17日、西村が田口代表との3度目の会談で移籍を了承し、同20日に2人のトレードが発表された。

 同年、吉井は先発で初の二桁勝利を挙げるなど移籍先で“再生”し、3年連続二桁勝利でヤクルトの2度の日本一に貢献。一方、西村は移籍1年目に5勝しただけで、3年後に自由契約と明暗を分けた。

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新天地で日本一に貢献しメジャーリーグへ