懐かしいグラウンド息子とも娘とも親子でサッカー対決
記念館に隣接するグラウンドは、銅山が稼働していたころ、社員が家族と運動会などで楽しんだ場だ。ここで、親子でサッカー対決をした。息子が小学校5年生のときサッカーチームへ入り、コーチに「お父さんもやりませんか」と誘われ、父親チームへ入って子どもチームの相手をした。土日の大半はサッカーで、その後に娘も始めたので、その相手もした。そのグラウンドは、ほぼ当時のままだった。
1953年5月、神奈川県相模湖町(現・相模原市)で生まれた。父は神奈川県庁に勤める地方公務員で、母と妹と4人家族。地元の小学校から国立市にある桐朋学園の中学校へ進み、部活は剣道部。桐朋高校でも続ける。76年春に慶大法学部法律学科を卒業し、入社した。
今回の再訪で、別子事業所で最初に予算管理を担当した精銅工場(現・東予工場精銅課)へ寄ると、会議室のような小部屋に、自分が置いた丸いテーブルが残っていた。誰もが自由にやってきて、テーブルを囲んで、工場の改善案を話し合う。技術者から「何でこんな業績が悪いのか?」と、率直な質問も受けた。別子事業所で鍛えた物の考え方や課題解決の原点は、この小さな丸テーブルだ。
別子には、製錬で鉱石に入っている硫黄が亜硫酸ガスとして発生し、煙害問題が起きた歴史がある。そこで陸から遠くすれば煙害はなくなると考え、製錬所を沖合の四阪島へ移した。
だが、煙害はむしろ広まった。創業家の住友家が心配して、当時の家長が煙害を監視できるようにと、四阪島に別邸を建てた。その「日暮別邸」の名を持つ建物を、社長時代に住友グループの社長会の賛同と協力を得て、陸地へ移築した。
煙害の克服には年月がかかってしまったが、絶対に克服するという強い意志のもと、技術革新を重ね、乗り越えた。その歩みを、別邸の屋内に展示している。単に「施設を残しました」ではなく、負の事例でも、常に技術革新を追求する姿勢と住友の事業精神のメッセージに、と考えた。とくに若い世代に、伝えたい。同じことは、もう繰り返さない。そんな先見性を、引き継いでほしいからだ。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年2月26日号