歌川国綱(2世)画「信州川中嶋大合戦之圖」部分(東京都立図書館所蔵)
歌川国綱(2世)画「信州川中嶋大合戦之圖」部分(東京都立図書館所蔵)
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 越後の龍と、甲斐の虎。同時代の実力者同士、そう呼ばれたのが上杉謙信と武田信玄だ。12年間で5度にわたって2人が激突した背景には、あるきっかけがあった。X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わったスエヒロさんの新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、二人のやり取りの一部を抜粋・編集してお届けする。

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上杉謙信(以下、謙信):川中島の戦いといえば私・上杉謙信と甲斐の武田信玄さんの間で、北信濃の領有を巡って争った合戦のことですね。川中島の場所は信濃更級郡の犀川と千曲川との合流点になっているところです。

武田信玄(以下、信玄):ワシ、信玄は20歳前後で父である武田信虎を駿河に追放して家督を相続。その後、隣国である信濃への侵攻を推し進め、有力な武将を次々と倒しながら、さらに勢力を広めつつあったのだな。

謙信:一方、私は反乱が頻繁に起きていた越後を攻略したことで、その名が知られるようになっていきました。守護だった上杉定実の斡旋もあり、兄・晴景の後を継いで春日山城を居城としました。じわじわと地位を固めておりましたね。

スエヒロ著『戦国時代のタイムライン』(朝日新聞出版)
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信玄:そんな状況で、ワシが攻めたてた武将のうちの何人かが、上杉謙信めに泣きつきよったのじゃな。まったく情けないやつらじゃ…。それを受けて義の武将・謙信が兵を挙げよった。これが川中島の戦いに繋がっていくのだな。

謙信:川中島の戦いは、一度の戦いではなくて、実は12年間の間で、5度にわたって激突しているのですよね。主なもので1553年、1555年、1557年、1561年、1564年の計5回も戦っています。数年に一度戦っているので我々の間では「恒例の合戦」とも言えますね!

信玄:5回も戦っとったのか…。言われてみると確かに多いな。ちなみにそのうち最も激しかったのが4回目である1561年の合戦だな。この合戦のみを川中島の戦いと呼ぶ場合もあるほど大規模な合戦だったわけだ。

謙信:川中島の戦いでは「私と信玄さんが一騎打ちした」というような話も、後世に伝わっているようですね。(実際に一騎打ちがあったかは定かじゃないのですよね)

信玄:4回目の合戦で、武田軍は軍師・山本勘助が考案した「キツツキ戦法」と呼ばれる戦法を採用したのだな。軍勢を二手にわけ、一方が相手の背後をついて敵をおびき出しつつ、もう一方がそれを挟撃するというものだ。

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