90歳の父は骨髄異形成症候群が悪化して白血病に、84歳の母は転倒を繰り返した末、寝たきりに。ともに、認知症が進んでいる。介護とは無縁だった筆者は、介護福祉士の資格を取得した。発売中の著書『いつかまた、ここで暮らせたら』で伝えたかったこととは。AERA 2024年2月26日号より。
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「家だぁ~」
久しぶりの家に、母は玄関に入るなり、大きな声を出した。
「家に帰ってきたのね。家なのね」
2021年5月。母は車椅子で、急な玄関スロープを上がり、段差だらけの我が家に帰ってきた。風が吹けば雨戸はカタカタと音を立て、蜘蛛の巣と害虫と湿気だらけの我が家に。わずか2泊だったが生きる力を取り戻し、揃って施設へ帰っていった。
昭和8年生まれの父と14年生まれの母。いつまでも二人住み慣れた我が家で寄り添って暮らせたらよかったが、長く認知症の父をケアしていた母が急激に認知症が進み昼夜逆転。日々の生活が危うくなった。
「もう、家はダメだろう」
母の希望を叶えたい
コロナ禍の20年夏に二人同時に特養(特別養護老人ホーム、正式名称は介護老人福祉施設)に入所。しかし翌年には退所し、看護小規模多機能型居宅介護(通称・看多機)というサービスを利用しながらの在宅介護を開始。それも「家に帰りたい。父ちゃんに会いたい」と言い続ける母の希望を叶えたかったからだ。しかし、私の介護に関する力不足で断念。母の尊厳を守るケアができなかった。司令塔として生きてきた母にとって、娘に命令されたり否定されたりするのが耐え難かったのだ。
ある日職員の前で、
「あの子は私の子じゃないの。大っ嫌い、あの人大っ嫌い」
そう言ってティッシュペーパーの箱を投げつけたこともある。 その一方で、
「ごめんね。ありがとうね」
と、小さくなることもあった。
それが認知症によるものだと知らなかった私はいちいち言い返しては苦しんだ。振り返れば、睡眠を削っての排泄介助(数時間おきにパッドやおむつ交換)や食事介助(とろみ食を作って食べさせる)は苦ではなかった。対話の方が苦しかった。