藤原道長像(『前賢故実』より、国立国会図書館デジタルコレクション)
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「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」。藤原道長が詠んだ「望月の歌」は、藤原氏の栄華を表す歌として今も語り継がれている。道長はいかにして権力を掌握したのか。どのような生涯を送ったのか。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する(この記事は「AERA dot.」2023年11月20日に配信された記事の再掲載です)。

【図】道長を中心とした藤原家の家系図はこちら

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意外に豪快だった道長

 藤原道長は光源氏のモデルの一人にもあげられ、スマートな貴公子のイメージがあるが、実際は豪放磊落な性格だった。花山天皇の御代のこと、雨が降る気味の悪い夜、天皇の提案で肝だめしが行われることになり、藤原道隆・道兼・道長の兄弟がそれぞれ決められた殿舎に向かった。二人の兄は恐れて途中から引き返したが、道長は大極殿までいって柱の一部を証拠として切りとり、もち帰ったという。

 またある時、父兼家が諸芸に通じている藤原公任(頼忠の子、四納言の一人)をほめちぎり、「我が息子たちが、その影さえふめそうにないのは残念なことだ」というと、道長は「影ではなく顔を踏んづけてやろう」といったという。この逸話を記す『大鏡』は「将来、栄達する方は、心魂(精神力)が猛く、神仏の加護も強いようだ」と述べている。

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