道長を中心とした藤原家家系図

 道長の日記『御堂関白記』は、現存する世界最古の直筆日記として、ユネスコの記憶遺産(世界の記憶)に登録されているが、中身は誤字やあて字が多く、細かいことにこだわらない道長のおおらかな性格をよく伝えている。

 兼家の五男として生まれた道長は、本来摂関家の嫡流を継げる立場にはなかった。しかし、長徳元年(九九五)、兄の道隆・道兼が相次いで亡くなり、疫病により公卿の約三分の一が世を去ったことで、道長は一気に後継者候補に躍り出る。

 一条天皇は内大臣伊周と権大納言道長のどちらを政権首班にするか迷ったが、母である東三条院の意見をいれて道長に内覧の宣旨を下す。従来、摂関は大臣が任じられてきたが、道長はまだ権大納言だったため、同等の職権をもつ内覧のみが与えられたのだろう。もともと一条は、伊周の関白就任をゴリおしする道隆に不快感を抱いていたといわれる。伊周自身も若く、政務経験が不足していたうえ、尊大で人望がなかったことも道長に有利に働いた。

 こうして内覧となった道長は、間もなく右大臣に就任して名実ともに政権トップに立ち、藤氏長者、摂関家嫡流の地位をえた。さらに、長徳の変で伊周が左遷されると、道長は左大臣となり、内覧・左大臣として長期政権を築いていくのである。

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一人の天皇に二后が並び立つ異例の事態