やがて道長は、三条が目を病んだことを理由に退位をせまった。長和五年(一〇一六)、三条はせい子を母とする敦明親王の立太子を条件として後一条天皇に譲位した。外孫の即位により、道長はこの時初めて摂政に就任する。翌年、三条が亡くなると、敦明は道長の権勢を恐れて東宮を辞退し、小一条院の称号をえて政界から退いた。

 代わって後一条の同母弟敦良が東宮となり、道長は天皇と東宮の外祖父として、その権力はいよいよ盤石となった。寛仁二年(一〇一八)には三女威子が入内して中宮に、三条の中宮だった妍子が皇太后になり、太皇太后の彰子とあわせて前代未聞の一家三后を実現。その宴席で「望月の歌」を詠み、わが世の春を謳歌したのである。

院政の先がけとなった大殿道長の政治

 後一条の即位から一年後、道長は摂政を嫡子頼通にゆずった。自身の目の黒いうちに摂関職を息子に継承することで、安定的な権力移譲を図ることがねらいだったといわれる。

 摂関政治の全盛期を築いた道長だが、実は摂政の経験はこの一年間だけで、関白には一度もならなかった。一条・三条朝の約二十年間、内覧・左大臣として政務を運営したのである。これは、道長が一上の地位にこだわったためと考えられている。一上は太政官の公事をとりしきる役で、左大臣以下の筆頭公卿が行うのが通例だった。しかし、摂関制度の確立の過程で、摂関に就任すると天皇の補佐に専念するため、一上の地位を次位の公卿にゆずる慣習が生まれ、関白は陣定などの公卿会議、受領任命の審議に加わらない形が慣例化した。つまり摂関でいる限り、会議に出席して議論を直接コントロールすることができないのである。そこで仕事熱心な道長は、内覧として実質的に摂関と同じ権限をもったまま、筆頭公卿の一上として自ら会議を主催し、公卿たちを直接統括したのである。

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涙にくれる日が続いた晩年の道長