三条天皇との対立と一家三后の実現

 道長の最大の幸運は、多くの子女に恵まれたことにあった。道長には二人の有力な妻がいた。正妻は左大臣源雅信の娘倫子、次妻は安和の変で失脚した源高明の娘明子である。どちらも多くの子女を生んだが、子どもたちの社会的地位には大きな差があった。正妻の倫子が生んだ頼通・教通はいずれも摂関となり、四人の女子はみな天皇・東宮の后・妃となっている。一方、明子の子は頼宗が右大臣になっただけで、能信・長家は大納言どまり、入内した女子もいない。母親が正妻であるかどうかが、出世に大きく左右したのである。

 道長も父や兄にならい、天皇家との婚姻政策を強力に推し進めた。長保元年(九九九)、十二歳の長女彰子を一条に入内させ、翌年、定子を中宮から皇后にスライドさせたうえで、彰子を中宮に立てた。二后並立は道隆が先例を開いたが、今回は一人の天皇に二后が並び立つ異例の事態となったのである。彰子は寛弘五年(一〇〇八)に敦成親王(後一条天皇)、翌年に敦良親王(後朱雀天皇)を生み、道長が外戚となる未来を開いた。

 ただし、それにはまだ時間が必要だった。同八年、一条が三十二歳で崩御し、道長の甥にあたる三十六歳の三条天皇(母は道長の姉超子)が即位した。中宮は道長の次女妍子、東宮は彰子の子敦成である。しかし、道長が敦成の即位を望んだこともあり、三条と道長の関係は冷ややかであった。翌年、三条が藤原済時の娘せい(おんなへんに成)子を皇后にしたことで対立は決定的となる。道長が行った一帝二后の並立を、今度は三条が行うことで反抗の姿勢をあらわにしたのだ。これに対し道長は、せい子の立后と同じ日に、あえて娘妍子の内裏参入の行事をぶつける嫌がらせをして報復した。公卿の多くが道長の権勢を恐れて妍子の入内に集まったため、立后の儀式は大臣のいないわびしいものになったという。

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関白には一度もならなかった道長