しかし、無意識のうちに「なかったこと」にしているのが、相手の利害に関係することだと想像すると、ちょっとぞっとします。それが誰かとの約束事なら、「約束したのに守らないのか」と責められるでしょう。日常の中の他愛のないやり取りでも、高齢者がそれをやると、「都合の悪いことはなんでも忘れる」とか「本当にボケたのかもしれない」などとまわりから陰口を叩かれかねません。そう考えると、「なかったこと」にするのはまわりに大きな迷惑がかからないものに限定したいところです。
記憶の減衰に対抗するのを意識していたわけではありませんが、昔からやり続けている習慣があります。それは書類の右上に、必ず日付を入れるというものです。老いを自覚するようになってから、これが記憶の減衰に対抗するのに大いに役立つことに気付きました。伝授してくれたのは先輩の教授でした。
東大工学部の教授会では、定年退官する教授が最後の挨拶をするのが慣例になっています。そこである方が伝授してくれたのが、この「書類の右肩に必ず日付を入れなさい」という教えです。同時に「それだけが頼りになる日が来ます」と話していました。当時はまだ若かったので、その言葉の重要性に気付くことはできませんでした。