それにしても、火のないところに煙は立つまい。噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(つぼね。部屋)を訪れたことが記されている。だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。

 とはいえ、彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。たぶん、ある。そう筆者は考えている。それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える。紫式部の彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。

「好きもの」紫式部

『紫式部日記』は、四つの部分から構成されている。最初が彰子(しょうし。道長の娘で、紫式部が仕えた皇后)の出産など道長家の晴れの出来事を記す寛弘五(一〇〇八)年から同六年にかけての記録、次は有名な清少納言批判などを記すエッセイ、それに続いて年次を記さない短い記事群があって、最後には寛弘七(一〇一〇)年の道長家の記録が置かれている。

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紫式部を口説かない男などいない