テスト入団というと、無名の選手を連想するファンも少なくないはずだが、時にはドラフト1位で騒がれて入団した甲子園のヒーローやプロでトップクラスの実績を残した名選手も、さまざまな事情から受験することもある。そんな山あり谷ありの人間ドラマを紹介しよう。
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通算165勝を記録し、最多勝や沢村賞も手にした実力者なのに、37歳になって、古巣・巨人にテスト入団したのが、西本聖だ。
1993年、中日を自由契約になり、オリックスと契約した西本は、5勝5敗の成績を残したが、「5勝したらプラス1000万円」という口約束があったにもかかわらず、オフの提示額は、現状維持の3000万円だった。
契約交渉はもつれ、12月に再び自由契約になった西本は、尊敬する長嶋茂雄監督が復帰した巨人で「最後は終わりたい」と熱望。翌94年2月の宮崎キャンプで入団テストを受験し、3度のテスト登板を経て、合格をかち取った。
だが、当時の巨人は、桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己ら投手陣が充実しており、堀内恒夫投手コーチは「序列が崩れる」と西本の復帰に反対の立場だった。同年3月24日付の東京スポーツには「やっぱり球が遅いことに尽きる。127、8キロしか出ないようではね。コースをひとつ間違えれば、確実に(スタンドに)持っているから使えないよ」という堀内コーチの談話が掲載された。記事を読んだ西本は「担当コーチがあそこまで言う限り、僕が1軍で投げることはないだろう」(自著「長嶋監督の20発の往復ビンタ」 小学館文庫)と、巨人への復帰が茨の道であることを改めて実感したという。
同年、長嶋巨人はリーグ優勝と日本一を達成したが、西本は1軍公式戦で登板することなく、3月30日のオープン戦、ヤクルト戦で先発し、5回を3失点で降板したのが最初で最後の“1軍登板”となった。
1軍で勝利投手になり、もう一度長嶋監督と握手したいという夢は叶わなかったが、現役20年目のベテラン右腕は「やれるだけのことはやったと思っているから、悔いはない」と自らを納得させて、ユニホームを脱いだ。