夏の甲子園優勝投手として期待されてプロ入りも、結果を出せず、戦力外通告を受けたあと、テスト入団したチームでオールスター出場3回と大輪の花を咲かせたのが、畠山準だ。
1982年夏の甲子園で、池田高のエース・4番として全国制覇を達成した畠山は、ドラフト1位で南海に入団。2年目の84年に5勝を挙げたが、3年目以降は、体調不良やフォーム改造失敗で伸び悩み、88年から生き残りをかけて打者として再出発した。しかし、1軍に定着できないまま、出場16試合に終わったダイエー時代の90年オフに自由契約になった。
当時26歳。さすがに将来を考えたそうだが、「何か自分でやり残したことがあるような気がした」と現役続行を望み、ダイエーコーチ時代に指導を受けた大洋・竹之内雅史コーチに相談すると、入団テストを斡旋してくれた。
沖縄の秋季キャンプにテスト生として参加すると、みんなが気楽に声をかけてくれる明るいムードに、「こんなチームでもう1回、ナイター(1軍)でやりたい」の意を強くした。
合格が決まると、須藤豊監督は「おまえはほかの者と違うぞ。テスト入団なのだから、結果を残さなかったら、またクビだぞ」と言って、ポンと尻を叩いた。
その言葉を励みに、「1打席1打席を大切にしよう」と決意を新たにした畠山は、持ち前の練習熱心さで努力を続け、移籍2年目の92年から3年連続二桁本塁打をマーク。打率.281、14本塁打、72打点を記録した93年シーズン終盤には4番も務め、同年から3年連続オールスターに出場した。
夏の甲子園で投げ合った早稲田実・荒木大輔と、横浜時代の96年にチームメイトになったのも、不思議な因縁と言えるだろう。
甲子園のヒーローといえば、“平成の怪物”の異名をとった松坂大輔も、ソフトバンクを自由契約になった直後の2018年1月に中日にテスト入団している。
3年契約総額12億円という破格の条件で9年ぶりに日本球界復帰をはたした松坂だったが、ソフトバンク時代は右肩の故障に苦しみ、在籍3年間でわずか1試合1イニングの登板で終わった。