式部はその後、宣孝と死別した三十代後半に出仕する。彼女は出仕したものの、ほどなく里へと下がったことがあった。里下がり後、三か月ほど出仕しない彼女の身を案じた同僚からの歌も、届けられた。そんな時期に彼女は「古里にかへりて後、ほのかに語らひける人に」(実家に戻ってこっそりと逢った男性に)「閉ぢたりし 岩まの氷 うちとけば をだえの水も 影見えじやは」(これまであなたを拒んでまいりましたが、全てを許したのですから、あなたが訪れる流れはまさか絶えてしまうことはないでしょうね)という歌を残している。『紫式部集』に見えるその歌の相手の男性が誰かは不明だ。

 種々の憶測のなかには、出仕下がりの恋の相手を藤原保昌と考える向きもある。むろん推測の域を出るものではないが、そうであっても不思議ではない。源頼光と並び平安武者の代表とされるこの人物は、盗賊「袴垂」との逸話もある(『今昔物語』二十五─七)。彼だとすれば紫式部のライバル、和泉式部の夫となった人物で、道長時代に活躍した王朝武者だった。その点では式部との間に接点がなかったわけではない。とはいえ、それは後世のわれわれが“あらまほしき”願望だったかもしれず、真偽は不明だ。けれども『式部集』が伝える歌の場面からは、この時期の里下がりに男の影を見出すのは、無理な話でもあるまい。そこに“泡沫の恋”を想像することも的外れではなさそうだ。

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関幸彦

関幸彦

●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。

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