TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、連載「RADIO PA PA」。今回は2024年1月9日から14日まで東京・紀伊國屋ホールで上演された「三上博史 歌劇 ー私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないー」について。
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たった15歳で希代の天才に出会ってしまった少年は、それからどう生きてきたのだろう。
新宿・紀伊國屋ホールで上演された「三上博史 歌劇 ー私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないー」はその少年が味わってきた途方もない陶酔と悔恨を凝縮したロックオペラだった。
希代の天才とは寺山修司。俳句、詩、短歌、ラジオ、演劇、作詞、評論、競馬など表現分野は多岐にわたり、「あなたの職業は?」と問われて自身の名「寺山修司」と答えたエピソードは今も語り継がれている。
新宿のにぎやかな往来から、寺山修司没後40年記念/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演と冠のついたチケットを手に会場に入ると、黒装束の演者たちがステージと客席の間をうろついていて、既にそこは天井桟敷ワールドだった。けたたましく開演ベルが鳴るなりミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」ばりのロックバンドを従え、化粧を施した三上博史が登場する。その姿は寺山という大きな星から降臨した使者のようだった。
三上は寺山の遺した言葉のピースを提示しながら祝祭空間を作り上げる。「五月の詩」「かもめ」「ふしあわせという名の猫」「タンゴ~行き過ぎよ、影」……。彼の歌唱にピアノが寄り添い、ドラムとべースの重低音が響き、ギターが泣く。ブーツにシースルーの衣装を着た三上は純白のブラジャーを装着した背徳的な背中で僕を挑発し、寺山世界の涯(は)てまで連れて行ってくれた。
寺山という途方もなく大きな存在を、三上博史はこつこつ掘り起こしてきた。寺山の命日5月4日には彼の故郷青森県三沢市でイベントを行ってきた。「これから三沢に行ってくる」という三上の言葉を何度聞いたことだろう。それは寺山の匂いを知る最後の世代と自覚する彼なりの巡礼だった。朗読が主だった公演に歌が入り込み、バンド形式になり、それが今回につながったのだという。