――当時を振り返るといかがだったでしょうか。
人気が出たことは素直にうれしかったですが、(自分の境遇や世間への)憎しみがエネルギーになっていた部分があった。病気の僕をバカにしていた人たちに対して、「ざまあみろ」という意識があったと思います。お金がたくさん入るし、街を歩けばワーワー言われる。勘違いしていました。当時は自分のことが嫌いだったので、その自分を評価される矛盾がどんどん苦しくなって……。最後に頼ったのは家族でした。母親に電話したら、僕が住んでいた中野坂上に布団一式運んで一緒に住んでくれて。「入院したほうがいい」と言われましたが、僕は中学、高校と病気に苦しんで人生がどん詰まって芸人になった(詳細は後編)。初めて見つけた居場所だったので失いたくなかったんです。仕事があるしキックさんもいる。ただ、もう限界でした。統合失調症の治療で精神科病院の閉鎖病棟に入院して。部屋のスペースが6畳ほどの保護室に入るのですが、外側からカギをかけられてこちらからは出られない。喫煙所に来る入院患者が「ハウス加賀谷だ!」ってのぞきにきて、監視カメラも設置されていて。テレビに出ていた数カ月前とあまりに状況が違う。あの時は何も考えられなかった。
アパレル会社の内職は長く続いた
――7カ月間の入院生活の後、10年間の自宅療養をしました。アルバイトで社会復帰した時はいかがでしたか。
自分は接客業が向いていると勘違いしていました。寿司屋、喫茶店で働いたけどうまくいかない。ウェ―ターで運ぶ時に薬の副作用で手が震えて、コーヒーがこぼれてしまう。コントとして見ていたら笑えるけど、お客さんからすれば迷惑ですよね。芸人を再開した後もアルバイトは続けています。肉体労働で1袋25キロのセメント袋を運んで3階に上ったり。いろいろやりましたが、アパレル会社の内職は長く続きました。1人でコツコツやる手作業のほうが性に合いますね。