林住期の中で死が近づいてきた人間はどうするか。ほとんどが世俗に、自分の妻のもと、家族のもとに戻ってきます。

 ただ、世俗に戻って元の木阿弥かというとそうじゃない。林住期で別の世界をさまよい歩いた、その結果、さまざまな人に出会って、さまざまなことを学んできた。そのいわばリフレッシュの蓄積が、再び始まる家族、あるいは共同体の暮らしの中で活かされます。つまり林住期は、ある種の成熟の時間でもあるわけです。

遊行期に進んだほんのわずかな人が釈迦でありガンディー

 林住期の次が最終のライフステージ、第四期の遊行期です。日本のいわゆる生き方本には「それまで得た経験や知識を、世間に伝える時期」といった説明も見られますが、本来の遊行期は違います。生き方本にある説明は先ほど言った林住期を経て世俗に戻ったあと、つまり林住期のいわば延長の話でしかありません。

 実は最終ライフステージの遊行期に進めるのは、ほんのわずかの人間です。遊行期に進んだ人間は、もはや家族、共同体のもとには帰りません。帰らずにどうするか。現世を放棄して、一人の遁世者、聖者として全く別個の人生を歩み始めます。

 要するに現世放棄者、遁世者、聖者になった最も代表的な人物が釈迦なんです。現代においてはガンディーが遊行期を生きた一人と言えます。

 私は俗と聖を行き来する林住期にこそ、「人生100年時代」を生きる今日の私たちが、老病死に対する不安にどう立ち向かうかという問題を考えるヒントがあると思っています。

 ともすると私たちは、老病死から遠い人生の前半を明るい50年、老病死に近づく人生の後半を日陰の50年と二元的な対照に考えがちです。

 しかし、人生の後半の50年を林住期と捉え、俗と聖を行き来するような生き方ができれば、決して日陰にはなりません。現に92歳の私は林住期を生きていて、極めて明るく老病死に立ち向かっているつもりです。

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