読売国際協力賞の贈賞式で=2022年11月28日、東京、一盛和世さん提供

 それには本気で勉強しようと思ったんです。帰ってから。高校のときにはしなかった勉強をね(笑)。熱帯病を勉強するのに世界で一番のところというと、ロンドン大学衛生熱帯医学校です。奨学金を片っ端から調べて、親には意地でも頼らないぞと思って、奨学金をもらって行っちゃった。さすがに厳しく、試験も何回もあって、鍛えられました。

――修士課程から入ったんですか?

 いや、私はサモアから帰って玉川大の修士課程に籍を置いて、そこの課程を終えていたので、修士号は持っていたんです。修士号を取ってから、佐々先生のお手伝いをしてユスリカの研究をちょっとした。先生は東大を定年退官して帝京大学に移っていたので、私は帝京大に1年間いました。ユスリカも学問として面白かったんですけど、すぐロンドンに行ってしまった。

 博士(PhD)のコースは、1年目の試験に落ちると先に進めないんですよ。そこでがんばって試験に通って、実験もして、PhDを取った。そこで自信がつきました。帰ってきてすぐ、離婚しました。

夫婦は同じ山を登るものなんだと思う

――え、いつ結婚されたんですか?

 この話はあんまりしていないんですけど、ロンドンに行く半年ぐらい前です。生物好きが集まるサークルで出会った人でした。私はフィラリア対策っていう山に登りたいと思っている。彼は彼で別の山に登りたいと思っている。でも、クライマーとしては同じなんですよ。そこのところは意気投合していたわけ。話も合ったんです。だけど、登る山は決定的に違っていた。

 夫婦っていうのは、同じ山を登るものなんだと思う。それは手を取り合って登るケースもあれば、1人がベースキャンプで頑張っているケースもある。だけど、ここを登りたいと思って見ている山は同じなんだなって思う。私みたいに前人未踏の山を登ろうとすると、どっちかが山を諦めないといけない。まあ、そこまで筋道立てて考えていたかは自分でもわからないけれど、向こうも同じようなことを感じていたようで、すんなり別れました。

 PhDを取ってからは、修業の日々です。国際協力事業団(JICA、現・国際協力機構)の専門家としてグアテマラに行き、タンザニアでは都市マラリア対策に取り組み、日本学術振興会研究員としてケニアでツェツェバエの生態研究をしました。いろんな熱帯病の現場を見て経験を重ねていったら、1992年にWHOによばれた。赴任地はサモアです。さあ、来たぞ、っていう感じ。

 同じサモアに今度はWHOというモノが言える立場で行けたのは大きくて、私も修業してきたから知識も経験もあるし、ちょうど人生として脂の乗っている時期だったのも幸いだった。それは運というのもありますよね。

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満を持してチームリーダーに