象皮病の患者さんの足を洗う50歳のころの一盛和世さん=サモア、一盛和世さん提供

 私が卒論のために東京大学医科学研究所に通うようになったのは大学3年(1972年)からですが、当時の医科研にはフィラリア症の第一人者の佐々学先生がいらして、まさに日本からフィラリア症をなくそうと、それこそ「プロジェクトX」をやっていた時期だったんですよ。その佐々先生のお部屋に、フィラリア症で陰嚢水腫を起こした患者さんの写真が飾ってあった。自分の巨大な陰嚢に腰をおろしたような姿の写真で、私は衝撃を受けた。これがフィラリアとの出会いでした。

――大学は玉川大学を卒業されたんですよね?

 そうです。なんというか、私は、皆さんが目指すような「いい大学を出て、いい人と出会って、お子さんもいて、仕事も着々とステップアップして」という路線から外れている。そういう路線を高校生のころに自分の中ですっかり外したんですね、振り返ってみると。

 子ども時代は恵まれた環境にいたと思います。東京の開業医の娘で、小学校のときは勉強が好きな、いい子だった。中学から女子学院に入って、ちょっと横を向くようになったかな。当時はそんな意識はしていなかったけれど、その、いい大学を出ていい人に出会ってという路線は私は違うと思ったんです。

――何があったのですか?

 いや、学校自体はいいし、家族も仲がいいし、友達と別にケンカしたわけでもない(笑)。私の家は下町にあって、あのころは結構公害がひどかったんですよ。中3から高1にかけて、ぜん息と蕁麻疹がひどかった。苦しくて、学校に一日いられない感じ。そこで「生きる」ということをすごく考えたんだと思うんです。「いのち」ということを。もともと小学校のときから生き物が好きでしたし。

大学に行ったら、空が青かった

 それから「ほかの人とは違う、自分は自分」というのも認識した。友達は勉強しているけれど、私は勉強しないし、できない。疲れちゃうから。で、どんどん成績は落ちるんだけど、その成績すらどうでもよくなる感じ。「大した病気ではない」と言われるんだけど、自分としては大した病気で。一番多感な時期に、中途半端な病気だったのが影響したのかな。

 高校生になって受験勉強が必要になっても、熱心でなかった。その路線に乗っかるのは、自分で嫌だっていうのもあったし、乗っかれないっていうのもあった。私が受験した年は、東大が入試をしなかった翌年で、1年待って東大を受験した人もいっぱいいて、最悪の年だった。私はそんな状況の中でいろいろあって、玉川大農学部に入ったんです。

 でも、それが良かった。大学に行ったら、空が青かったんですよ。

――玉川大は東京都下の町田市にありますからね。排ガス規制が甘かった時代の東京の下町とは空気が違ったでしょうね。

 あのころは東京中が曇っていたと思います。気分的にも。学生運動の余波で、何だかギスギスしていたし。

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