鎌倉幕府から始まり、七百年続いた武家政権。朝廷との一国二制度となっていたが、その権力構図は東アジア世界にあっても特異だったという。日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家か天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
* * *
お手本なき時代へ
建久年間は鎌倉殿が官職体系に包摂され、その証しとして右大将家なり将軍家なりの呼称が表明された段階で、京都朝廷は武家を「幕府」と認知したことになる。武家が「正当」性に加えて「正統」性に向けて舵を切ったとき、“公武合体”というシステムが誕生する。朝廷による軍事権門たる武家への「諸国守護権」の委任を前提にして、武家は「幕府」たり得たことになる。
「鎌倉殿」とはその限りでいえば、治承四(一一八〇)年の内乱勃発時の反乱政権のなかで誕生しており、当然ながらその「天下草創」においては簒奪性が前提となる。だが当初の、鎌倉殿を首長とあおぐ反乱勢力は、京都朝廷とは相容れない立場だった。その限りではそこに「幕府」の呼称を付与することはできない。「内乱の十年」をへて、将軍という職責の委任がなされて幕府なる呼称は可能となる。「幕府」の概念には王朝権力との調和性や親和性がともなう。王朝権力の一分肢としての存在だった。別言すれば、内乱をはさみ、その入口の治承段階は、「関東」「鎌倉殿」「天下草創」が同じゾーンで収斂されるし、その出口の建久段階は、「幕府」「将軍」の理念が重なる。
こうした形で登場した「幕府」は、一国二制度というべき特異な政治システムをわが国に定着させ、武家の権力は以後七百年にわたって、その歴史を規定した。その「武家」=「幕府」の存在は、天皇(院)ともども日本国にあって権力+権威の源泉として作用することになる。