以上の点からも了解されるように、武家登場以前の古代は、一極的同心円の権力体であった。これに対し東国に、もう一つ政治的磁場が築かれることになる。かくして異なる中心軸の権威・権力が併存したことになる。つまり二つの軸を有した楕円構造の権力体が創出されたともいえる。至尊(権威)と至強(権力)の分裂という、かつて福沢諭吉が指摘した権力上の特質については、このように構図を設定できる。

選択の中世

 中世は選択の時代だった。政治システムとして新興の武家なのか、あるいは在来の天皇(院)なのかという選択である。鎌倉そして室町という二つの「幕府」に特色づけられた中世は、天皇を廃することがなかった。温存することで、間欠泉のごとく天皇の権力回帰が叫ばれた時期もあった。後世の幕末に「尊王思想」が高揚されるにさいし、「承久」と「建武」の記憶が浮上する。

「九変五変」観を論じた『読史余論』(注1)が語るところでは、「承久」「建武」の転換期にあって、時代は北条そして足利の武家を選ぶことになった。後鳥羽が主体となった前者は敗北に終わったが、後醍醐の後者は勝利する。だがそれは一時的なものであり、足利に敗北した後は幕末・明治に記憶の足場を提供し、再びの「王政復古」に結ばれる。「建武」という王政復古の記憶が“拠り処”として作用し、近代国家はそれを「建武の中興」として位置づけた。

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反乱政権から体制内システムへ