そして、その七百年を規定した武家による幕府のシステムは、天皇との同居を前提とすることで、お手本なき権力秩序を構築したことになる。考えてみれば、武家が権力の担い手となった日本の中世・近世は、東アジア世界にあっても、特異な権力構図を提供した。中世・近世をはさむ古代そして近代は、ともどもがお手本を有した。古代国家は中国(唐)が、そして近代国家に至っては欧米が、お手本として機能した。

 その点では強弱の差はあっても、天皇・朝廷を戴く京都は中・近世を通じても都であり続けた。この点を至尊(権威)・至強(権力)の議論とすり合わせるならば、次のような理解が得られる。

 十二世紀末の内乱で至強的存在として、自己主張を展開した武家は、至尊的存在の天皇を京都という場に温存させつつ、新たに鎌倉を軸に武家の権力体を構築した。そこにあっては至尊的天皇と、至強的将軍の二つを中軸とする楕円が、日本国の秩序を構成したことになる。

 かつての古代国家は、至尊と至強が天皇自身に併有されていた。いわば中華皇帝思考と同居するシステムだった。平城・平安京を軸とした強大な集権国家は、それを通じて実現された。権力の分割構図でいえば、中世は武士の台頭で、武権に代表される至強的要素が王朝から分離されるなかで形成される。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ
「鎌倉幕府」と呼ばれたのは後世のこと