天皇家内部の政治の執行主体は、天皇の場合と上皇(院)の場合があった。前者が「親政」であり、後者が「院政」である。そして武士・武家の台頭はその院政段階でなされ、やがて武権の確立が上皇(後白河院)との関係で成立することになる。つまりは天皇による「親政」は、武家の権力と相容れないもので、上皇による「院政」の方が、武家との同居が可能なシステムだったということになる。中世を天皇と武家が協調した時代とみなすならば、院政は中世の産物という見方も可能だろう。

 かつての律令的親政主義にあっては、天皇の専制が前提だった。それ故、白石が「八変」と認定した後醍醐の「親政」主義は、「院政」(上皇)と「幕府」(武家)の両者ともどもが存在できない流れとなる。南北朝の動乱は、吉野の後醍醐・南朝(大覚寺統)が「親政」主義の立場で、武家の足利と対峙した。京都の光明・北朝(持明院統)は「院政」を主軸として、武家(幕府)との同居を選択する。したがって『読史余論』の天皇観にあっては、後醍醐は「親政」主義を標榜した最後の天皇という理解がなされる。

 後醍醐による「親政」の復活はその後に消滅し、ここを画期として足利政権から徳川政権へ――「武家の代」へ――完全移行するというのが白石の解釈だった。この観点は後醍醐の「親政」が“正統”なる天皇王朝の終焉となったことを意味した。要は足利の武家により擁立された「院政」と同居した北朝は、“正統”性からは距離があるとの見方であろう。光圀の『大日本史』(注4による南朝正統主義の立場はそれを示していた。

 武家(幕府)に代表される権力の行使とは、「武朝」の成立として解釈されることになる。それはわが国の「王朝」は後醍醐天皇の段階で終わりをむかえるとの考え方にも繋がった。

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