まず幼帝たる清和天皇(在位:八五八~八七六)の登場で、藤原良房の摂政たる立場での政治の委任が実現した(「一変」)。そして宇多天皇(在位:八八七~八九七)時代、関白・藤原基経の登場で(「二変」)、天皇が幼帝たるか否かを問わず、天皇権力の代行を可能とするシステムが制度化される。天皇の象徴的側面の萌芽は、摂関の登場と無関係ではなかった。

 宇多、醍醐、村上天皇という天皇名の登場も、そうした流れと対応していた。執政云々には振幅があるが、摂政・関白が常置される「三変」の冷泉天皇(在位:九六七~九六九)から後冷泉天皇(在位:一〇四五~一〇六八)の八代は、天皇不執政が恒常的にシステム化する段階だった。

 そしてこの「三変」は冷泉院の号に示されているように、天皇に対しても「~院」の表現が一般化する(注2)。ここにも中国的文明主義から離れた日本的ローカリズムへの転移があった。海を隔てて大陸と対峙するわが国の地勢的位置が、“交流”から“隔絶”への変化を促した。律令体制下の国家間での公的使節(遣隋使・遣唐使)の中止にともない、十世紀以降はそれまでの“開の体系”から“閉の体系”へと移行する。

 前述した京都の地名や内裏の後院名に由来する天皇名の出現は、そうした「閉の体系」下でのローカル志向への所産だったことになる。それでは、『読史余論』が指摘する「四変」以後の天皇の流れはどうなのか。

 以下では、『神皇正統記』などの文献を参考にしつつ、天皇号の変遷を略記しておく。まず確認すべきは諡号と追号の違いについてだ。前者は律令体制下の最盛期に登場したグローバリズムの象徴的呼称で、中国皇帝との対揚意識によっており顕彰・美称の意味合いが強い。後者の追号は慣用的には、諡号と同一視されているケースもあるが、生前の縁のある場所(地名)や建物に由来し、顕彰・美称の意味合いはない。

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”漢風”な名から縁のある地の名へ