「世界最古の王室」として知られる日本の皇室。その天皇号の変遷には、摂政・関白の登場と関係しているという。日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家か天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
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天皇号はどう変化したか
江戸期に記された新井白石の『読史余論』(注1)が語る王権(天皇権力)の推移について掘り下げておこう。白石は『読史余論』では、清和天皇即位から徳川幕府に至る歴史を「九変五変」と区分して論じている。九世紀以前の天皇名は文武、天武、聖武など多くで「武」や「文」の漢語が共有されている。そこには帝王たる治政への形容句が内包され、生前の評価を表す諡号としての要素が強い。けれども十世紀の東アジア世界の転換(大唐帝国の滅亡)を契機に、わが国は、それまでの律令国家体制から王朝国家の段階に移行する。そして、それに対応するように、天皇の呼称にも変化がもたらされた。
宇多・醍醐・村上と続く京都の地名や御所名を冠する天皇たちの登場だ。総じて大陸的規範からの解放がなされた結果でもあった。中国的グローバリズムから日本的ローカリズムへの転換が顕在化する。この天皇号の変化は、当該期の律令システムから王朝システムへの推移と対応したことになる。
こうした日本的な天皇号の背景は、『読史余論』の内容を加味すれば、摂政・関白の登場と関係している(「一変」「二変」)。摂政とは「政(まつりごと)を摂(たばね・ふさねる)」ことで、関白の原義は「関り白す」(天皇の意思をあずかり、執行する)ことに由来した。天皇にかわる政治の代行・執政の役ということだ。