『読史余論』のなかの院政

「四変」以降の天皇の流れで特筆されるのは、院政の登場だった。そのなかで、武家の台頭が促されたことだった。「四変」から「五変」、すなわち後三条天皇の一時的親政をへて、白河上皇の院政へと転換が語られている部分だ(注3)。ちなみに昨今の高等学校の教科書では、多くがこの院政期を中世成立の画期としている。かつては武家政権の成立期、すなわち鎌倉開府段階を中世の成立と設定したのに比べ、隔たりが認められる。

 院政期を中世成立期とする立場は、この時期が来たるべき武家政権の担い手たる武士の登場を促したからだ。武士の登場は、天皇の流れを主軸とした「九変」観でいえば、「六変」が相当する。また武家が主軸の「五変」観では、「一変」が該当することになる。まさに院政期「四変」・「五変」を鎌倉政権成立の助走とする理解にもとづいていた。

『読史余論』は、近世的史論での発想である以上、院政期を天皇権力の変質の過程とする立場によっている。ただし、院政期は父系的血脈による皇位継承への転換として、解されている。天皇権力の執行・代行が現天皇の父に限られるとの立場は、皇位継承における父系の優位性を語るものだった。そこでは父子間での権力移譲が重要な意味を有し、摂関期に比べ外戚専権が減少されたところがポイントとなる。

「院政」のシステムは後醍醐天皇の建武体制(「八変」)における最後の「親政」回帰の動きをへて、その政治形態は、形式としてのみ江戸末期まで存続することになる。上皇―天皇という父子の血脈による権力システムは、「至尊」の存続という点で、それなりの役割をはたしたともいえる。天皇のみに権力が一元化されるシステムよりは、もう一つの定点たる上皇(院)を胎内に保持することで、権威なり権力の温存がはかられ、秩序の維持に繋がるとの見方だ。

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院政と武家権力の始まり