50代の桓武天皇までが大枠では漢風諡号的だとすれば、51代の平城は当該天皇との縁の深い場所が天皇の名に付与される意味合いが強い。52代嵯峨、53代淳和天皇の場合も別邸や後院に由来する追号だった。けれども54代・55代の仁明・文徳両天皇については再度漢風の諡号が、56代・57代の清和・陽成の幼帝は再び追号となり、陽成天皇の強制退位にともない、皇統が変化、58代光孝天皇で漢風諡号となる。

 このように、平安期の九世紀末の段階までは、諡号と追号は必ずしも一定したわけではなかった。その後の59代宇多・60代醍醐以降は、中世そして近世を通じ追号が一般化する。本文でも指摘したように62代村上天皇を以って、「○○天皇」の呼称は途絶える。この天皇は皇朝十二銭、六国史の編纂の最後ということで、若干のブレはあるにせよ、中国的模範からの解放がこの前後に亢進する(幕末になって、すべての天皇を「○○天皇」と呼称するように改められた)。

 留意したいのはこの後の「○○院」と呼称される院号付与の天皇は、「後」の字が付されるケースも少なくないことだ。例えば摂関期の66代一条から68代後一条の場合と同じく、67代三条→71代後三条、院政期の72代白河→77代後白河、74代鳥羽→82代後鳥羽などは、その好例だろう。ただし漢風の諡号では「後」は付されないことが多い。例えば54代の仁明天皇は漢風諡号のため“後仁明”と表現せず、仁明天皇の陵墓のあった深草の地に対応させて、89代後深草院(天皇)とした。あるいは56代清和天皇の場合は、京都郊外の水尾陵にちなみ、清和は水尾天皇とも称されていた。そのため江戸初期の108代後水尾の名はこれによる。

 近世江戸期も幕末期になると、119代光格以降、仁孝・孝明・明治、今日に続く漢風諡号が再び復活する。指摘されているように、幕末における対外危機にともなう国家意識が、再びグローバル化への転換をもたらした点も大きい。

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『読史余論』のなかの院政