大手設計事務所で都市計画に携わってきた武田孝巳さんが写真家を志し、夜間の専門学校で写真を学び始めたのは1993年、39歳のときだった。

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97年に退職すると、国際NGO「国境なき医師団(MSF)」でボランティアとして働いた。その後、7年間にわたってカンボジアを撮影。2012年からは隣国タイの首都バンコクを写している。

「タイには『マイペンライ』という言葉があります。『どうってことないよ』という意味ですが、例えば、線路わきに住んでいようが気にしない。そんなマイペンライ精神がすごく好きなんです」と、武田さんは言う。

一方、設計事務所で働いていたころは「ずっとこの仕事は自分に向いていない」と、悩み続けた。

「仕事に対する違和感があって、苦しかった。落ちこぼれってわけじゃないですけど、他のみんなはぼくなんかより全然優秀で、自分がいなくても十分だと思った」

苦労してアイデアを出しても、公共性の高い都市計画では自治体の声が強く、最終的に計画は凡庸なものに落ち着いた。

「そういうことも含めて、さまざまなところで違和感があった。だけど、見つからなかったんです。何をしたらいいのか、わからなかった。最後の10年間は、無理やりこの仕事を続けていた感じがします」

撮影:武田孝巳

あなたの作品が一番よかった

当時、仕事に疲れた武田さんは連休や正月休みを利用して海外へ出かけた。

「そして、写真にぶつかった。アフリカに行って」

ケニアでマサイの村を訪れた武田さんはおばあさんを写した。帰国後、出来上がったプリントを目にすると、「何だ、これは」と思った。

「それまで写真に興味はなかったのですが、おばあちゃんのしわしわの顔のアップを見ていたら、写真って、何だろう、と考えるようになった」

93年、夜間の写真学校に入学し、本格的に写真を学んだ。週末は新宿に通い、「ギラギラした夜の世界を写した」。

その写真を97年、国境なき医師団主催のフォトコンテスト「MSFフォトジャーナリスト賞」に応募した。

「自分の写真のレベルがどのくらいのものか、試したかったんです。でも、当然のことながら落ちました。応募資格は20代のみで、当時のぼくは40すぎでしたから」

ところが、MSFから「ちょっと来てください」と連絡があった。

「事務所を訪れると、あなたの作品が一番よかった、と言われたんです」

そのチャンスを武田さんは逃さなかった。

「しばらくボランティアで働かせてください、と頼み込んで、コネクションをつくった」

武田さんは25年間務めた会社を辞め、98年、MSFの現地事務所のつてを頼ってカンボジアへ旅立った。

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地雷被害者から普通の人々へ