昌幸は、5000の軍勢(諸説あり)で、居城の上田城に籠もるが、そこに徳川秀忠軍約3万8000が襲来する。この時、昌幸の機略により、徳川軍が打撃を受け、敗退したことは史上有名であろう。しかし、三成ら「西軍」は関ヶ原の戦いで敗北。昌幸らの運命は暗転する。昌幸・信繁親子は死罪になるはずであったが、「東軍」に付いた信之(戦後改名)の助命嘆願により、高野山への追放処分となる。高野山麓の九度山に屋敷を構えた昌幸父子の生活は、困窮していたという。昌幸は、慶長十六年(1611)六月に、赦免されることなく、病没した。臨終の前、昌幸は信繁を枕元に呼び「近いうちに徳川と豊臣との間に戦が起こるであろうこと」「その時は自分は、豊臣に加勢し、家康を滅ぼそうと考えていたが、それができず、残念であること」「戦の際は、籠城戦ではなく、積極策にこそ勝機があること」などを語ったとされる。
配流地での幽閉生活は、信繁の身も蝕んだようで、病になったり「歯なども抜け」「髭などは黒きは余りこれ無く」という有様であった。不遇をかこっていた信繁のもとに、豊臣方から加勢を促す使者が訪れたのは、慶長十九年(1614)のことだった。一説によると、使者は黄金二百枚と銀三十貫を支度金として、信繁に渡したという。信繁はこの要請を受け、九度山を家族とともに脱出し、大坂へ向かう(十月九日)。真田が大坂城に入城したことを知った家康は「籠城したのは、真田の親か子か」と聞き、親(昌幸)は病死したこと、入城したのは子(信繁)であることを知ると安堵の表情を浮かべたとされる。家康は、信繁を侮っていたのだ。家康が自分の誤解に気が付くのは、そう遠いことではない。信繁は、大坂夏の陣で家康を追い詰めたことによって、歴史に名を刻むことになる。
※週刊朝日ムック『歴史道Vol.30 関ヶ原合戦と大坂の陣』から