いよいよ最終回が迫ってきた大河ドラマどうする家康」。1年におよぶ放映のクライマックスを飾るのは大坂夏の陣・冬の陣。豊臣恩顧と呼ばれる大名たちが誰一人として味方に付かないなか、あえて大坂城に参じた武将たちがいた。そこにはそれぞれの思惑があった――。

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 真田信繁は、真田昌幸の次男として生を受けた。信繁よりも「幸村」という名の方に、馴染みを覚える人も多いかもしれない(しかし確かな史料には、幸村の記載はない)。大坂夏の陣では、豊臣方として参戦し、徳川家康を追い詰めるも、惜しくも敗れて、討ち死にした武将として、信繁はその名を残している。   

永禄十年(1567年)に出生したとされる真田信繁。死後数十年たってから軍記物で記された「真田幸村」の名で有名になった。
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 信繁が生まれたのは、永禄十年(1567)だといわれている。幼名は、弁丸。母(山之手殿)は、菊亭(今出川)晴季の娘ともいわれるが、その出自については定かではない。信繁の兄には、真田信幸がいる。信繁の青年期は、戦国乱世の悲哀に彩られていた。天正十三年(1585)七月、父・昌幸は、上杉景勝(上杉謙信の養子)に帰属するのだが、この時、上杉方への人質として、信繁を差し出しているのだ。信繁は17歳だったとされる。当時、天下を席巻する勢いを見せていたのが、羽柴秀吉であるが、昌幸は秀吉にも接近。そうした事とも関連して、信繁はまたしても人質となる。天正十四年(1586)か、その翌年、大坂の秀吉のもとに送られる。

 信繁は秀吉の家臣・大谷吉継の娘を妻としている。そして文禄三年(1594)十一月、信繁は、従五位下・左衛門佐に叙任される。また、その時までに「豊臣姓」を下賜されている。信繁は大名でもないのにこのような厚遇を受けたのは、秀吉のお気に入りであったからだろう。その秀吉は、同年八月に病没する。秀吉死後の政治情勢は、風雲急を告げ、慶長五年(1600)六月、家康は上杉景勝に謀反の疑いありとして、大坂を出陣する。その留守を狙い、石田三成ら「西軍」は家康打倒のため、挙兵。昌幸のもとにも、三成からの勧誘を呼び掛ける書状が届く。下野国犬伏において、昌幸と信幸・信繁兄弟の会談がもたれた(七月二十一日頃)。席上、昌幸は三成に味方することを表明。信繁は父の見解に賛同する。だが、兄・信幸はそれに反対した(ちなみに、信幸は徳川重臣・本多忠勝の娘を娶っていた)。意見が分かれた親子。信幸を翻意させることは困難だったため、昌幸と信繁は石田方、信幸は徳川方として行動することになる。これが有名な「犬伏の別れ」である。

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