一方、嫡子為家は叔父公経の猶子(形式上の養子)になっていたため栄達し、二十九歳で公卿、最後は正二位権大納言まで進む。家業の和歌についても、後嵯峨院のもとで『続後撰和歌集』を撰進し、個性をおさえ伝統にとけこむ中世和歌のスタイルを確立した。

親鸞 関東で念仏を広めた浄土真宗の祖

 日野家は冬嗣の兄真夏の後裔で、十一世紀半ば、資業が日野(京都市伏見区)に法界寺を創建したのに始まる。資業の曽孫実光は公卿となり子孫は名家(大納言を極官とする家柄)として繁栄したが、弟有範は出世街道から外れ中級貴族として生涯を終えた。

 浄土真宗の開祖親鸞は有範の子といわれている。九歳で出家し、比叡山で身分の低い堂僧として修業をつんだ。二十九歳の時、京の六角堂に参籠して聖徳太子の夢告を受け、浄土宗の開祖法然の弟子となる。親鸞は法然に心酔し「たとえ上人にだまされて、念仏により地獄に落ちても後悔しない」と述べたという。法然も親鸞を信頼し、専修念仏の教えを説いた『選択本願念仏集』の書写を特別に許している。二人は深い絆で結ばれていた。

 承元元年(一二〇七)、承元の法難と呼ばれる専修念仏の弾圧事件が起こり、法然と弟子たちが配流される。越後(新潟県)に流された親鸞は、配流生活の中で「愚禿親鸞」を称し「僧でも俗でもない。禿の字をもって姓とする」という非僧非俗の立場を打ち出す。

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頼朝のおかげで摂政に