定家を救ったのは和歌の力であった。正治二年(一二〇〇)、後鳥羽院が歌人たちに自慢の和歌を詠進させた際、「駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ」を出し上皇に絶賛された。定家は内昇殿を許され、翌年新設された和歌所の寄人に抜擢。元久二年(一二〇五)、定家たちによって撰進された『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』に並ぶ傑作と称され、新古今時代と呼ばれる和歌の黄金時代を到来させた。

 歌壇の第一人者となった定家は、その後も王朝和歌の再興をめざして自撰集や歌論書を著し、晩年は単独で『新勅撰和歌集』を編纂。『小倉百人一首』も定家の編纂と伝えられている。俊成・定家の二代の活躍により、和歌の家としての御子左家の評価は定まった。

 定家は不世出の歌人であったが、人並みに出世を望む官僚でもあった。五十歳にして念願の公卿になったが、それは定家自身が日記『明月記』で「狂女」と罵倒した卿二位(後鳥羽の乳母藤原兼子)に、定家の姉健御前が頼んでようやく実現したものであった。その後も除目が行われるたびに、息子の為家や知り合いの女房に朝廷の動向を探らせたという。定家が極官の正二位権中納言になるのは、公卿就任から約二十年後のことであった。ただし、妻が実力者西園寺公経の姉だったため経済的には恵まれ、晩年は将来の歌学の発展のために、『古今和歌集』『源氏物語』などの古典の書写に精力的に取り組んだ。

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平家と対立した九条兼実