藤原氏といえば、摂関政治による栄華を極めた一族のイメージは強いが、優れた文化人や僧侶も輩出している。例えば、公家社会から武家社会への転換期、同時代を生きた二人。「小倉百人一首」の選者である藤原定家と浄土真宗の祖の親鸞だ。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
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藤原定家 和歌の家の地位を確立した天才歌人
御子左家は藤原道長の六男長家に始まる家系である。四代俊成は和歌の第一人者として各所の歌合で判者(歌の優劣を判定する人)を務め、後白河院の命で『千載和歌集』の編纂を主導し、幽玄の美を理想とする抒情的な独自の歌風を確立した。
俊成に勝るとも劣らない才を受け継いだのが次男定家である。十代半ばから歌人として活動し、源平の内乱が始まっても「我がことにあらず」といって歌道に専心した。二十歳の時に詠んだ『初学百首』は、俊成が感涙をもよおす完成度であったという。二十代の半ばから父が歌の師範を務めた九条家に仕え、西行や慈円ら名だたる歌人と交流したが、建久七年の政変で九条兼実が失脚すると、定家も内昇殿を停止され官位の昇進も滞る。