インターナショナルスクールにいる日本人は、高校まで含めて年下の小学生と自分だけ。米国企業の子どもが中心で、常に英語の辞書を持ち歩く。
融合の決め手になったのが、「国境がない」と言われるスポーツだ。学校の花形だったアメリカンフットボール部へ入り、ルールも分からないままに始めた。スポーツには、一体感がある。試合で目立つプレーをすると、それなりの敬意も向けられる。次第に友だちが増え、英語が上達しただけでなく、自分の「居場所」もできた。翌年は、フットボールのオフシーズンに水泳チームにも入った。自分にも順応力はあり、がむしゃらに努力をすれば道は拓けるという自信が、生まれていく。
アラビア語の次は関西弁の世界を マンモス校で苦労
1966年7月、東京都の東急大井町線の大岡山駅近くで生まれる。両親と姉、妹の5人家族。小児喘息(ぜんそく)で体が弱く、幼稚園でみんなが遊んでいるときに早々と帰宅し、母と病院へいったり自宅で体を休めたりの日々だった。父は航空会社勤務で海外駐在も多く、小学校1年生が終わるころに家族でカイロへいった。乾燥した地がよかったのか喘息が治り、水泳を始めた。ただ、自宅や学校では日本語でよかったが、外へ出ればアラビア語。異なる世界に順応しなければいけない体験が、始まる。
アラビア語の次に苦労したのが、関西弁だ。父が大阪へ異動となり、家族で帰国して5年生の2学期が終わるころ、1学年に10学級ある小学校へ入った。6年生になって南北に分校されたが、それでも多い。そんなマンモス校へきて、未知の関西弁に囲まれた。分校を機に、慣れようと、みんなと同じことをするようにした。流行っていたブルース・リーごっこにも、参加する。ここでも「異なる文化」との距離は、縮まっていく。
最も大変だったのは、帰国して日本社会へ戻るときだ。グローバル化が進んだいまも、子どもたちにとって、大きな課題だろう。マレーシアから高校2年生の終わりに帰国すると、編入できる高校がみつからない。やっと、京都にあっていつでも編入できた同志社大学の国際高校に入り、親元を離れて暮らす。そのまま同大学神学部へ進み、大阪から2輪車で通った。