結局、反抗したけれど、じゃあ、何をやりたいのか、何学部に行きたいのかというのがなかった。あちこちで言ってますけど、30代半ばで米国に留学するまでは、自分でやりたいことというのは何もなかったんです。自分の意見というのもなくて、誰の意見にも合わせるから、「合わせの小池」って、あ、私の旧姓は小池っていうんですけど、そう呼ばれていた。聞いているばっかりで、自分でしゃべることってあんまりなかったですね。

――今と大違いですね。

 そうなんです。同級生は「あんなに可愛かったのに、どうしてこうなった」と言います(笑)。35歳でやりたいことに出会ってから、言いたいことがどんどん出てきて。今は人が言っている最中にかぶせて話してしまう。これはまずいから自重しないと、と思っているところです(笑)。

テニスなのに泥だらけ

――ちょっと時間を戻すと、京大の医学部に入って、卒業と同時に結婚。お相手は同級生でいま京大iPS細胞研究所長の高橋淳先生でした。

 彼の専門は脳外科ですけど、テニス部で一緒だったんです。彼のテニスは高校野球みたいなんですよ。

――え? 一生懸命ということですか?

 そう、何故かテニスなのに泥だらけになる。それぐらい、どんな無理と思われるボールでもくらいついていく。それと、女子と男子で練習するとき、女子にはみんな容赦するのに、彼は容赦しなかった。それが良かったですね。いま思い出しました。

 私は母親にかなり洗脳されて、ちゃんと手に職をつけて、結婚して子育てもするんだと思い込んでいた。だから、子育てをしやすい科として眼科を選びました。卒業直後の研修医時代は手に職をつけるためしっかり勉強しないといけないので、「その間は子どもを産みません」と姑さんに手紙を書いた。あのころはすぐに「子どもはまだ?」って聞かれるから、先制攻撃です。

――すごいな、それは。

 2年の研修医が終わって大学院に行っている間に1人目を産み、2人目は大学院を修了して京大付属病院で助手をしているときに産みました。小さい子が2人いる生活はしんどかったですね。脳外科の旦那は睡眠3時間で働いていて、家にいない。0歳と2歳の子をお風呂に入れるのは大変で、自分の顔を洗うとか髪を洗うとかできなかった。

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