奥田:季語はまさに生きているんですよ。数十年、百年、二百年と時を経て世界や社会が変わっていくうちに、季語に包含されるものも変化していって、時代を超えていく。
夏井:痩せたり、絶滅してしまう季語もあるけど、豊かに進化していくものもある。
ふきもせぬ風に落ちけり蝉のから
この奥田選は、〈蝉のから〉という季語のみに焦点があてられた句だよね。どんな奥田監督的解釈になるのか興味津々。
奥田:この句には、生きとし生けるものすべてにある時空というか、無常観というか、そんなものを感じてしまったんです。
蝉については、諸説あるみたいだけど、古くから言われてるのは、幼虫として土の中で数年を過ごすけど、地上に出てきても生きられるのは七日間で。オスはすごいエネルギーで鳴きながら、伴侶を見つけ、結ばれ、子を授かり、メスが産み落とし、命果てるというね。その切なさが根底にあって、そこに一種のロマンチシズムを感じてしまった。
夏井:空蝉を落とすのが〈ふきもせぬ風〉というところにも詩があるよね。吹いていると感じなくても、空蝉を落とす風が確かにそこにある、というのが、何とも詩的な把握だなあと。
奥田:背中から生まれ出て、半透明のきれいな茶色の抜け殻だけが、空になって枝に張り付いている。でもそれが、風もないのに落ちてしまった。そこに、短い一生を生きる蝉の無常の美学があるんですよね。
自分と見比べてどうこうではなくて、ただそこにある無常だなと。自分と見比べてしまうのは、人間の傲慢だからね。
夏井:今の奥田さんの言葉には、季語とか、自然へのリスペクトがあるなあと。人間の限界を超えたものへの敬意というようなものが。
奥田:僕は、「俳句は十七音で表す宇宙」だと思っていて。大空を仰ぐのも自分、月や星を眺めて物思うのも自分、大地に横たわり思考をめぐらすのも自分でしょ。そして、この自分と対話するのが大自然であり、季語。つまり俳句は、自分と自分以外の季語が対話する宇宙だな、と。
これまで、師匠もいなくて我流で三十年も続いているのは、この対話がマイペースでできるから、なんですよね。うまく詠みたいとか、周りから評価されたいとか、そういうんじゃない。俳句という表現の中で、自分の感覚を外界とつなげられるのが快感なんだよなあ。このライフワークは、死ぬまで続くでしょう。
夏井:奥田さんにとっての俳句は、季語と自分とが対話する十七音の宇宙なんだね。
