奥田:まず、団扇が放り投げられている光景を写し、次に遊女の顔が映し出される。よく見ると、若さを通り過ぎた疲れ果てた横顔。季節は晩夏を過ぎた、初秋。ハタハタと木の葉がそよめくその光景には、もの悲しい侘しさが漂っている。これから来る冬の厳しい寒さを想像できても、彼女の今後を好転させるものは何一つ伝わってこない。その映像を眺める、観客の心には〈あはれ〉の感情がさざ波のように波打っていく。

夏井:奥田さんにとっては、〈豁然と〉も〈遊女の知らぬさかり〉も、〈あはれなり〉も、あえて言葉にすることで、見る側に訴える視覚的装置となっているわけだ。

奥田:どうしても子規の姿勢は映画監督と重なるんです。僕はこれらの句を読みながら、ほとんど同業者を観察するがごとく、子規の意図を察してしまう。極めて視覚的な文学である俳句に、物語性も強く漂わせるのが子規だなと。俳句を鑑賞する読み手が、一人称、二人称、三人称の視点に次々と移っていけるのも、意図された監督業の技に近いように感じます。

夏井:面白いなあ。同じ句を読み、同じ光景を眺めながらも、奥田さんと私では視点が異なる。奥田さんの俳優・監督としての感性が、俳人としての奥田さんの感性を形づくっているんだろうなあ。

 次の牡丹は、先ほどの〈豁然〉の牡丹とは、かなり趣が違ってるよね。

 大きさは禿の顔の牡丹哉

奥田:ああ、いいですねぇ。フッと頬が緩んじゃう。

夏井:この二つの牡丹の句を並べた時、私は後者のほうに惹かれるのね。違いは明らかで、前者は情感までも詠みこんでいて、後者は淡々と事実だけを詠んでいる。

 禿の顔があって、可愛らしく華やかで、それが牡丹の花の大きさだなあと描いているだけ。そこにメッセージは入れない。ただ写真のように切り取って、読み手にそのままゆだねてしまうわけ。

 私が淡々と描写した句に魅力を感じる一方、奥田監督の視点では、前者にこそイマジネーションを掻き立てられている。今回の奥田さんとの対談では、同時に共存する別世界を教えてもらっているなあとつくづく……。

夏井いつきさんと奥田瑛二さん
夏井いつきさん(左)と奥田瑛二さん、松山/出逢いのスナップ
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